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福島から日本が変わっていく

data : 2012.07.03category : ぼくらをとりまく 2012

「フクシマ」もしくは「FUKUSHIMA」。「震災後の福島県」を指すこの表記を使うことで、わたしたちは「今そこにある福島」を見ずに蓋をしてしまってはいないでしょうか。福島県の、偽りない「今」を感じる試み。それが必要とされています。

「福島」≠「FUKUSHIMA」

 2012年4月初旬。とある方からお誘いがあり、小林武史とap bankスタッフ数名は一路福島市へ。『芋煮会』なるイベントに参加してきました。名前こそ「芋煮」と付いていますが実際は芋を煮るわけでなく、その実態は「福島をどうにかしよう」という意識を持って頑張っている福島のみなさんとの交流会といったもの。まだ雪の残る古い温泉街。そこで出会ったのが木下真理子さんと宍戸慈さんでした。
 おふたりと話していくうちに、ひとつ大きなことに気づくことになります。

それは、わたしたちがいかに「福島」のことを「FUKUSHIMA」として捉えてしまっているか、ということでした。
 たしかに福島県は、復興に向かう被災地のなかでもなにかが「特別」であり続けている場所。いまも放射能の問題は彼らの日常の中に横たわり、未だ居住できない場所も数多く残っています。
 でも、だからといって福島の人たちがみな「被災者」という統一された別の人格に変わってしまったわけではありません。

みんな、笑い、泣き、喜び、怒り、あるいは恋もすればあくびもする、ひとりひとりの「人」なのです。そのことをわたしたちは、どこかに置いてきてしまっているのではないだろうか、と。
「正解はわからない。だから、まずは出会うことから始めよう」ーー。
 そんな想いでいまap bankでは"meetsふくしま"というプロジェクトを準備中。これは、そのきっかけとなったおふたりのインタビューです。みなさんもまずは文字で出会ってみてください。




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――おふたりは福島で『dip』というフリーペーパーの編集をされていたんですよね?

木下 そうですね。残念ながら今は休刊になってしまいましたけど。

宍戸 まりっぺさん(木下さん)が編集長で、私はプランナーとエディター。途中からはフリーになって、dipの雑誌編集をしながらラジオやテレビのお仕事もしていました。

――宍戸さんは経歴もユニークですよね。

宍戸 高校を出て大学に行く予定だったんですが、どうしても大学にやりたいことが見つけられなくて、当時はキャンギャルのバイトをして生計を立てている、21歳。「さて、これから何をやろう?」思ってるころに出会ったのが『dip』でした。パソコンも使ったことなければ、雑誌もほとんど読みませんでしたが、昔から国語が得意だったことと、好奇心が人一倍強かった。それが救いだったのかもしれません。

木下 イケイケのお姉ちゃんは、今まで交わったことのないジャンルの方だったので、最初会った時は会話が上手にできませんでした(笑)。どうにか距離を置こうとしたのですが、それでもめげずに付いてきたんです。

宍戸 小さな街なので、それ以前から友人づてに彼女のことはそれとなく知っていました。一緒に仕事をするようになって...彼女は、それはそれはオモシロかった。キレイなのに媚びないし、天真爛漫なのに、軸がぶれない。密かに憧れてました。少々鬱陶しそうな彼女を横目に、私は興味津々だったんですね(笑)。

木下 根性はあるし、仕事を任せればすぐに吸収していって、気がつけば彼女は誌面づくりの中心を担ってくれるようになりました。そうしていつか、天性の持ち前を活かし、いろいろな所に飛び出ては、たくさんの情報を捕まえきてくれる頼もしい存在になっていました。



宍戸 私が狩りで捕まえてきたものを、料理や味つけをしてもらうような感覚で仕事をしていました。たまに変なもの(不要な取材のネタなど)を釣ってきて「これはいらない!」とばっさり切られたりもして。でも、彼女のセンスと感覚はピカイチでした。dipの色はいつも彼女自身の中から紡ぎだされていましたから。

――お二人が雑誌を通して伝えていたこととは?

木下 「福島で楽しく暮らすこと」ですね。雑誌を作る中で、街の商店のみなさんや、取材先の方々...福島のたくさんの人たちに支えられてきました。だから、この豊かな自然と人の優しさが溢れる場所で暮らすことの楽しさを、自分たちの目線と声で伝えてきました。

宍戸 そう。6年間の地味な積み重ねがようやく成果を出して、福島に暮らす事、仕事をする事にも、希望を見いだしていたところでした。

――そこに訪れたのが震災だったということですか。おふたりは震災当日をどのように迎えたんですか?

木下 私はちょうど取材現場に向かう車中だったんですけど、急にトランポリンみたいに車が弾んだんです。あんまりスゴかったんで、地震だって気付くのにしばらく時間がかかったくらいで。道路脇の家から人が飛び出くるし、信号は消えるし、携帯もつながらない。状況もわからないまま近くの人と声をかけあいながら少しでも安全な場所に移動するのがやっとって感じでした。あたりが急に吹雪きになって、すごく不気味だったのを覚えてます。

宍戸 私は郡山にいました。道路が寸断されて福島市の実家に帰れなくなってしまったので、何かお手伝いできればと思い、当時番組を持っていた郡山のFM放送局に駆け付けたんです。スタジオは、余震が続く中の緊急放送。電話も繋がらないまま、ガソリンもなく人手不足。

音楽番組を担当していた私が、生まれて初めて読んだニュースの原稿は「本日午後3時頃、大地震が発生しました。死者○名、行方不明者○名」というものでした。

――すごい状況ですね。。。

宍戸 夜が怖かった。揺れるたび速報を入れながら、夜通しマイクに向かっていました。「この不安な夜はみんな一緒です。私も不安です。だから避難所でお家でこの放送を聞いてくれているみなさん、隣の人と声を掛け合いながら、みんなでこの夜を乗り切っていきましょう。明けない夜はないのですから大丈夫です」って言いながらね。でも、夜が明けたらもっとひどいニュースが入ってきました。

――そうですね、1号機が爆発したのは地震の翌日でした。




木下 はじめは言葉の意味もすぐには理解できないくらいで。「"原子力緊急事態宣言"って?」とか。避難指示も最初は原発から2km圏内だったのが10km、20kmと広がっていくんですけど、自分の家が原発から何kmなのかもわからない。だから、つながりにくいインターネットで原発との距離を調べるので精一杯。これから自分の身になにが起こるのか恐怖でおびえるばかりで、人生ではじめて死を意識した瞬間でした。

――すぐ避難しようとは思わなかったんですか?

木下 新潟に兄がいるのでそこに避難しようとも考えました。でも母が頑としてきかなくて。「行くならひとりで行きなさい」って。でも自分を産んでくれた人を置いていくことなんてできないですよね。結局、福島に居続けることを選びました。せめてあの時期に1週間でも福島を離れていればかなり被爆量を減らせたのにという後悔もあります。でもあのとき母を置いて出ていたら、また別の後悔が私の人生に深く残ったんでしょうね。

宍戸 私も、とにかく悩みました。でもその時、私には役割があった。「自分の命を守ることと」と「人の役に立つこと」の鬩ぎ合いです。結局、どこからともなく湧いてきた責任感の勝利。怖くて泣きながらも生放送を続けることを選びました。もちろん、最悪死ぬ覚悟で。当時、対策本部のあった開成山球場から中継をしていました。空間線量が20~30(μSV/h)もあったのにマスクもしていませんでした。

――フリーペーパーはそのまま休刊に?

木下 いえ、そこから1年、今年の2月まで6号出すことになります。春分の日の連休くらいになってようやく落ち着きを取り戻したので、雑誌再開の話し合いが社内で始まりました。まずは、お客さんは福島にいるのかいないのか確認とか、そんなとこからのスタートでしたけど。もちろんいろんな不安を抱えてはいました。でも、いますぐ健康に影響が出ない程度なんだったらどうにか続けたかった。これまで必死で積み上げてきた夢や生活を簡単に壊されたくなかったんです。

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――いっぽうで福島を出て行く人もたくさん出てくるわけですよね。

木下 はい。地震から1ヶ月半くらい経ったときでしたけど、果樹園を営んでいた友人が北海道に移住を決めたと知ったときは正直ショックが大きかったです。ともに福島で夢を追いかけていた仲間でしたから。実際に陰では移住する人たちを責める声もあったりして。だから、果樹園の彼とは数時間かけて話し合ったんです。なんで移住するのかを。そのとき彼はきっぱりとこう言ったんですよ。「命より大切なものはない」って。ビンタされたような気持ちでした。自分は何を守ろうとしていたのだろう?と。はじめて現実を突きつけられたんです。

――知ってはいたけど、認めたくなかった?

木下 そうですね、答えを先送りにしていただけだったんですね。

――それからどうしたんですか?

木下 そこからが本当の意味で地獄でした。蓋をしていた心の中から不安や悲しみの感情をひとつひとつ取り出して受け止めていくことをしたんです。でも何度考えても答えは出ない。それは私だけじゃなかったと思います。子どもを避難させてひとりでお店を続ける人、それもかなわないシングルマザー。住宅ローンを抱えて動けない人や、移住を決意した人も。みんなそれぞれ矛盾や不安がつきまとっていたんです。

宍戸 『dip』の発行についても「もうやめよう」「無理だよ」って、何度言ったかわからないよね。

木下 何度も話し合ったし、考えすぎて具合を悪くすることもよくあったよね。

宍戸 4月号(震災後1号目)を出した後、悩みに悩んで「とにかくこのまま何もなかったみたいな内容で発行するのはおかしい」 って結論になって、震災後2号目の6月号で「東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能汚染 私たちのこれからと、福島の未来をみんなで考えよう」という特集を組んだんです。

木下 震災があってから1~2ヶ月は、安全とも危険とも言えなくて放射能の問題を誌面にするのは避けていたんです。でも、こうなったらできるだけ正直でいようと。それで自分たちの中にある矛盾も含めて真っ正面から向き合った記事を作ることにしたんです。

宍戸 当時は「危険だ」といえば「不安を煽るな」と、「大丈夫」といえば「何を根拠に」と言われる状況でした。だから情報収集のためにとにかく必死で...行ける限りの講演会にも行きました。本も買って勉強しました。




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そんな私たちの気持ちを受け止めてくれたdipの社長さんや広告を掲載してくださっていたみなさん、福島のみんなにはとても感謝しています。

木下 いま福島で起きてるいろんな事って、私たちがこれまで置き去りにしてきた問題が震災をきっかけに溢れ出てきてるんだと思うんです。原発にかぎらずね。それを「国のせい」だと言ってしまえば簡単なんですよね。でも、無関心でいたのは他でもない自分です。他人事として片付けてしまえば、きっとまた過ちは繰り返されるでしょう?これが最後のチャンスかもって思うんです。

――最前線の当事者としてそう思う?

木下 福島の人たちは自分の意思にかかわらず、そうせざるを得ない状況を強いられてます。全部「命」の問題に直結してるからどうしたって置き去りにはできないですよね。

変わることは勇気のいることかもしれないけど、一歩踏み出した先の世界は意外とすっきり晴れやかで、悪いもんじゃないなって感じてます。

――おふたりの生活環境はどんなふうに変化したんでしょう?

木下 私は震災から1年で会社を辞めることにしました。自分にとってはすごく大きな、辛い決断でしたけど、いまここで起きている問題は福島の中だけじゃ解決しない、外部の人とつながっていかなきゃならないって思ったんです。イチ会社員、イチ編集長としてできることには限界がありますから。だから、仲間とつないできた輪をもっと広げて、苦しんでいる人たちの悲しみを少しでも薄められたらと。それで、ほどなく雑誌の休刊も決定しました。

宍戸 ひとつひとつ積み上げてきたdip、ラジオ...全部辞めて、仕事のアテもなく縁ない土地に行く覚悟がなかなかできいないでいた半年。




「国に見捨てられた!もうこんな国に子どもを産むことは諦めよう」と思っていた私を救ってくれたのは北海道の方々でした。衣食住、仕事...そしてボロボロになった心をお世話してくれた。あたたかくて、ありがたくて、彼らとの出会いは「何もいらない」「命があればいい」と思わせてくれました。それで、昨年末にやっと札幌に移住しました。今は札幌で福島関連のラジオ番組を担当させてもらっています。

木下 そういう出会いで知り合った人たちと手をつなぐ。そんなことから始まっていったんだよね。ホントに細い糸をたぐりよせるような感じでしたけど。でもびっくりするくらい人の輪はあっというまに広がっていって。

宍戸 『芋煮会』もそうだよね。ここで出会った人たちとつながっていくうちに「あぁ、福島から日本が変わっていくんだなぁ」って身を以て感じられたことが、それからの私たちにとって一番の心の支えだったかも。 この間も、小林(武史)さんが「なんかいっしょにやろうぜ」って言ってくれたり。福島が忘れられていくんじゃないかという不安が大きい中で、ホントに嬉しかったです。

木下 外に目を向けてみてわかったのは、すでに外からはたくさん手を差し伸べてくれてたってこと。見ていなかったのは自分たちだったということです。

宍戸 私たちだけじゃなく他にもたくさんの人が福島で動き始めています。そのひとりひとりが、新しく出会った外の人たちと手をつなぎ合うことで、新しい時代や世界が始まる気がしています。

木下 その中には、悲しみ、喜び、苦しみ、笑顔、たくさんのエネルギーが満ちています。そんな麗しい生き様の一端を、どんな形でもかまわないのでみなさんにも感じてほしいと思います。きっと何か見えてくる事があるはずだから。

――ぜひ、なにかの形でそれを実現させましょうね。

木下、宍戸 はい、よろしくお願いします!




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木下真理子

福島県福島市生まれ。福島の短大を卒業。地元企業に勤める傍ら、2001年、同世代でつくるフリーペーパーの制作に携わる。2005年、当時のスタッフと共にフリーマガジン「dip」創刊。立ち上げから休刊までの7年間、編集長を務める。 2008~2010年、福島学院大学 情報ビジネス科学科評議委員。2009~2011年、福島市子どもの夢を育む施設 こむこむ「君のアイディアで笑顔をデザインしよう」ワークショップ講師。



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宍戸慈(フリーパーソナリティ)

福島県福島市生まれ。福島県立福島女子高校卒業。2005~2012年フリーマガジン「dip」の創刊から休刊まで企画編集者として携わる。2010年~ラジオ番組(郡山コミュニティ放送)のパーソナリティをとして活動を開始。2011.12~北海道札幌市に移住後、福島を伝える番組「カラカラソワカ」を担当。FTPマットベーシックピラティスインストラクター。対話を交えた「cafeレッスン」を行い、福島女子による任意団体「peach heart」共同代表。

【担当番組】ハイブリットラジオ番組「カラカラソワカ」、NHK FM「ココロウタ」
【公式ブログ】ameblo.jp/donna-chika



(撮影・取材・構成/編集部)


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